日南学園が新勢力として台頭してきた

宮崎の高校野球名勝負名チームの記録

1995年に小川監督が育てた選手が甲子園に初出場を果たした

日南学園の強烈な存在感

私が中学生だったころに、臙脂色の校名と白色の配色のユニフォームの日南学園高校が選抜出場を果たして、ベスト8まで勝ち進み、試合内容も今までの宮崎県勢とは違って、強力打線で相手を圧倒するような勝ち方で、宮崎県勢に新しい風を巻き起こしました。

日南学園高校の監督を務めていた小川茂仁監督は東海大学の監督を務めてきた人で、日南の野球をする環境が優れていて気に入ったので、急遽日南学園の野球部の監督になった人で、独力でグラウンドを整備して、トレーナーの技術を勉強して身に付けて、日南学園の野球部の生徒の指導に当たりました。

小川監督が育てた野球部は、一人ひとりが練習でよく鍛え上げられていて、見た目もとてもたくましく感じられ、動きも一人ひとりが個性があって、華やかな動きをしている印象が有ります。小川監督は試合中にはあまり口を挟まずに、選手の自主性を大事にしている印象が有ります。

1995年 夏 甲子園 帝京vs日南学園

日南学園×帝京

初めて選抜甲子園に出場した年は、夏の甲子園も出場を果たして、新聞にも大会の優勝候補として取り上げられました。のちにプロ野球へ進んだトップバッターの平下選手は、注目の選手として新聞にも掲載されていて、今までの宮崎県勢がここまで大体的に報道されることは無かったので、かなり画期的なことだったと記憶しています。

夏の甲子園は緒戦で優勝した帝京高校と激突して、互角の試合を演じていましたが、延長までもつれ込んでサヨナラヒットを浴びて姿を消しました。帝京高校には、キャッチャーにランナーが強引に突っ込むラフプレーが見られて、物儀を醸しました。

今まで甲子園ではパッとした成績を挙げられなかった宮崎県勢に彗星のごとく強力なチームが現れたので、県の高校野球界は大いに盛り上がりました。その後も数年おきに、強力なチームを作り上げて甲子園出場を果たして、甲子園でも派手なプレーをして観衆を沸かせました。

小川監督はいつも余計な指示を与えずに、選手に試合の進行を任せているので、相手の強豪校の監督の緻密な戦術のために終盤に逆転を許して敗退してしまうことも多いのですが、例え試合に負けても、日南学園は実力があって強い学校という印象を見ている人に与えてしまうようなところが有ります。

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