青木宣親
青木宣親選手のステータス
生年月日: 1982年1月5日 39歳 出身地: 宮崎県 日向市 身長:175cm
配偶者: 青木佐知 年棒:550万アメリカ合衆国ドル 背番号:23 東京ヤクルトスワローズ 子女: 息子、娘 twitter アカウント: 有
通算成績: 試合数 1473試合 打数 5682本 安打 1818本 得点 953点
通算打率: .320 通算本塁打: 137本
2000年日向高校卒業
2001年早稲田大学スポーツ科学部に進学 強力打線の一員としてチームを引っ張る
2004年東京ヤクルトスワローズに入団
2005年中堅手としてレギュラーを獲得
6月から1番に定着、 プロ野球新記録の169単打、202最多安打、打率.344でセリーグ首位打者、新人王に選出される
2006年 ワールドベースボールクラシックの日本代表に選出、中堅手として日本一に貢献
オールスターゲームの第一線目でMVPを獲得
2008年 北京オリンピックに出場
2009年 WBCに左翼手の選手として出場 大会ベストナインに選ばれる
2011年 メジャーのミルウォーキー・ブルワーズに移籍
2013年 カンザスシティ・ロイヤルズに移籍
2015年 サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍
2016年 シアトル・マリナーズに移籍
2017年 アストロズに移籍 第4回のWBCの代表選手に選ばれる
トロント・ブルージェイズに移籍
ニューヨーク・メッツに移籍
2018年 ヤクルト・スワローズに復帰 現役で活動中
選手としての特徴
打撃
日本プロ野球では通算打率.326(2019年終了時点で歴代1位)を記録、首位打者を3度獲得。安打を量産することから「安打製造機」と称される。メジャーリーグのスカウトからは「MLB以外でプレーしている選手の中で最高の選手。めっきり少なくなった理想的なリードオフマン」「パワー以外の全てを兼ね備える。コンタクト能力に秀でており、2番打者として理想的な選手」と評されていた。
卓越したミート感覚で安打を量産し、2ストライク後の打率は2007年には両リーグ通じて1位、2010年にもリーグ1位を記録。「強く振ること」を心がけ本塁打数が前年から10本増加した2006年からは二桁本塁打を記録する長打力も備えた。
プロ入り当初は左投手を苦手としていたが、2005年から2011年にかけては右投手に対し打率.327、左投手に対し打率.333と左右の違いを苦にしなくなった。MLB挑戦後の2013年~2015年にかけては、毎年打率.330以上を記録し、対左を得意とするようになっている。
10打数に1個以上の割合で四球を選ぶ選球眼も備え、2007年から2010年まで4年連続で出塁率4割以上を記録した。メジャーリーグ移籍後も三振率で両リーグトップを記録し、ブルワーズ時代に監督を務めていたロン・レニキーから「天賦の才を持っている。あんなに手と目をうまく連動させる選手は、これまで見たことがない」と絶賛された。
打撃フォームは例年マイナーチェンジしており、「打てない時期が続くとき、元に戻せるなら問題は簡単です。なかなかそうはいかないから、逆にフォームをちょっとずつ切り替えていくことで打てない時期を短くできる」と言い、何通りかの打撃フォームを状態によって使い分ける。
守備・走塁
守備ではジャイアンツ移籍後は第2回WBCでも経験した左翼手として起用されている。ブルワーズ時代とロイヤルズ時代は主に右翼手として起用され、2014年まで右翼手としてDRS13、UZR12.9を記録。
外野守備では捕球経路の取り方の不安定さとフェンス際の飛球処理に難があることが指摘されているが、スピードを生かした守備範囲の広さが高く評価されている。ヤクルト時代にはメジャーのスカウトから「肩は20-80段階で45(やや平均未満)。
レフトが向いている」と評されるなど肩は特別強いわけではないものの、正確な送球を持ち味としている。一方で、FanGraphsにおけるDef指標では2012年から2017年の合計で-18.0としており、平均以下となっていたものの、UZR/150指標では2012年から2017年の合計で年平均2.5としており、平均以上となっている。
ヤクルト時代は中堅手として起用され、2006年・2007年と2年連続で300刺殺以上を記録(セ・リーグ1位)し、ゴールデングラブ賞に選出された。2008年には失策を減らしリーグ1位の守備率.996を記録。
2005年から2009年までは簡易RFでリーグトップ3に入っていたが、2010年は右翼方向の打球の処理が悪くUZR-6.3と平均を下回り、失策や記録に残らない雑なプレーを見せることもあった。
2009年には監督の高田繁から守備の怠慢さを指摘されており、特に2009年7月30日の広島東洋カープ戦での中堅守備では、田中浩康が弾いた打球に対するカバーを怠ったことで東出輝裕の二塁進塁を許した(記録は田中の失策)ことを試合後に厳しく叱責され、翌日から数試合、左翼手の福地寿樹とポジションを入れ替えられたことがあった。
「複数ポジションをこなせるように」との当時の監督の古田敦也の方針で2006年に1試合(8月19日)だけ二塁手として起用されたこともある。
走塁面ではコンスタントに一塁到達4秒を切り、バント安打時には3.68秒を記録。2006年に盗塁王を獲得している。盗塁成功率はNPB通算7割6分を記録している。メジャー移籍後は2014年までの通算7割と成功率が落ち(メジャー通算69%)、またロイヤルズ時代は、メジャー屈指の俊足として知られるジャロッド・ダイソンの存在もあり、試合終盤には代走を送られることもあった。
コメント