北別府学
北別府学投手のステータス
生年月日: 1957年7月12日 64歳 出生地: 鹿児島県 曽於市 身長:181cm
配偶者: 北別府広美 プロ入り: 1975年 ドラフト1位 広島東洋カープ
都城農業高校出身 現在:youtuber twitterアカウント:有 Instagramアカウント:有
1994年に現役引退 1982年に沢村賞を獲得(20勝)2012年: 野球殿堂入り
通算成績: 出場試合 515試合 213勝 141負 5S 防御率 3.67
- 都城農業高校出身 1975年広島東洋カープに入団
- 1982年に20勝 最多勝と沢村賞を獲得
- 1994年に現役引退 通算213勝
プレースタイル
直球の球威や変化球の切れ味に飛び抜けたほどのものはなかったが、それらを補って余りあるほど優れた制球力から「精密機械」の異名を取り、投手王国と呼ばれた1980年代の広島の主軸として活躍した。直球は投げる比率は低くて最高球速は144km/hで、球種はスライダー、カーブ、シュート、シンカーなどであった。特にスライダーの出し入れで内と外を使い分ける投球術が持ち味だった。
全盛期は非常に理想的な美しい投球フォームであった。広島大学の研究者が北別府の肩の動作解析を行い、力学的にどこにも無駄な力が入っていない、自然な肩の回転に驚いたというエピソードがある
精密機械と呼ばれるほどの抜群の制球力を身に着けたきっかけは、プロ入りして間もなく、並み居る先輩投手の投球練習を見て、そのボールスピードに圧倒されたことだったという。速度で敵わないならコントロールを磨くよう心がけ、3年頑張って結果を残せなかったら野球を辞めて故郷に帰ろうと考えていたと、後に本人は語っている。
そのコントロールの良さを示すエピソードとして、本塁上の三角形地点に置いた3個の空き缶を、たった3球投げただけで全て倒してのけたという話がある[13]。バッテリーを組んでいた達川光男もその投球について「ミットを動かさずに捕れる」と高く評価しており、広島投手コーチ時代に「筋肉番付」で「ストラックアウト」に挑んだ際には、現役選手でも中々達成できないパーフェクトを成し遂げていた。
そのようにコントロールに絶対の自信を持っていたからか、現役時代は審判の判定にクレームをつけることが多かった。野球中継の解説においても「最近のピッチャーは大人しいですね。私は審判とも戦っていましたよ」と語っている。
ストライク・ボールの判定に疑問のある場合には、球審を試すように平然と続けて寸分たがわない同じコースの球を連投して球審を試すこともあった(同じくコントロールに絶対の自信を持っていた江夏豊も同様のことを行っている)。セリーグの審判部長だった田中俊幸は北別府について、「他の投手が先発した試合の倍は疲れた」と述べている。
生涯記録したボークは2で、初登板から2420回1/3イニングボークなしという記録を達成している。完投数が著しく減少した現代の野球界には否定的であり、「今の投手は7回を抑えていても8、9回はわからんというピッチングですもの。これはつまらない野球ですよ」と批判している。
投手として200勝を挙げた一方で、打撃に関しても現役通算で5本の本塁打を放っており、これは広島に所属した投手(野手転向した選手は除く)としてはコルビー・ルイスと並び歴代最多である。
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