剣道は面一本! 第一章

剣道関連の本

著者 小森園正雄

出版社 体育とスポーツ社

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剣道は面一本! 小森園正雄剣道口述録 [ 小森園正雄 ]
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お薦めの対象者

きちんとした真っすぐな剣道を身に付けたい人

本の概要

本書は、剣理に合った、正統派の剣道を身に付けるために必要な考え方を解説しています。

本の内容

第一章 剣道の大意

剣道の捉え方

剣道にあっては、教師の生きざまそのものが教材であると捉えることができる。すなわち、教育とは「人が人を作る」ことであり「人は人によって作られる」ものであると考えられる。いわゆる価値観の付与であったり、教師による人格の感化である。

師匠と弟子は共に道を求めて修行する立場にある。このような考え方によって師匠と弟子の関係が築かれ、師匠の人格的な影響によって弟子の人間形成が期待されてくるのである。そこには師匠の厳しい人格的内容が要求される。こうした本道にそった剣道の指導が望まれます。

心身の修練することにより「人間を錬磨する道」という考え方に、剣道本来の伝統文化としての意義を見出さなければならない。

自分自身の姿勢や態度を修得する過程にあって手段となるのが技である。技のみならず剣道を求めていくうえで考えなければならない課題は多くある。例えば、自分と対敵関係にある相手に対する礼儀や、自分自身に向けられる礼。スポーツには見られない構えの考え方とその内容。心気のやりとりや在り方、太刀筋、正しい刃筋、

残心、さらには、修練の姿勢や態度などなど。剣道は試合における勝利を目的として、ただこれのみを追求するものではなく、あくまでも心身を修練することが狙いである。

剣道の実践者は日本の伝統的な運動文化の継承者であり、剣道を将来に伝えていく伝達者の立場でもある。

剣道の学び方

自分の正師を見つけて、正師から理を学ぶことである。

師匠の教えは「技法を修得する道筋」であり、師匠が表現した形は簡単であっても、その中には深い真理が含まれているのである。

師匠が遣う技の中には自ずと「理」が存在していることを忘れてはいけない。師匠が教えるのは「技法を修得する道筋」である。答えを探すのは自分自身である。

剣道は自分自身を学ぶことで、態度としては、師匠から自分の問題点を指摘してもらい課題を与えてもらえることである。与えられた課題を「素直に聞く」「努力する」事は当然で、自分から聞く場を作るように努力しないといけない。

修練のねらいと在り方

剣道の修練の狙いとその内容は「剣の理法を修練する」ことにある。そして、剣の理法を修練する過程における様々な作用が、人間を形成する道へとつながる。

理法を修練する自分の実践態度は、理法の中に自分を没入させることである。剣道の技術的な課題は究極的には太刀の使い方である。太刀の正しい遣い方によってこそ太刀は正しい道筋を通ることができ、これによって正しい刃筋が期待できる。

剣道を修練する際には、まず教えられたことに対して素直に聞く耳を持つことが大切である。次に、教えられた内容を実践しながら考え、工夫し、心身を働かせながら、理解を深めつつ体得の度合いを進めていく、さらに稽古の数をかけて自分のものにしていく。

剣道の修練は基本を繰り返し、それを積み重ねるということである。ここで言う基本とは「基本動作」としての基本に止まらず。技の遣い方における「対人技能としての基本」を含む

剣道における基本の修練には卒業はない。

稽古の在り方

稽古の意味

  • 技能などを向上させるために練習を繰り返す
  • 心身を働かせて鍛錬する
  • 規則正しい厳格な反復練習などで心身を訓練する
  • 身体をならし鍛える
  • 進歩・向上・改善を図る
  • 学術・技芸を修める
  • 品性を修養する

すなわち、剣道の稽古とは先人の教えを学び、心身の発達や技能の向上を目的とする実践的な行為や、人間的な修養といった意味があります。

自分の剣道の到達目標を持つようにする。

自分の持ち備えている能力だけに頼って稽古をしたとしても、剣道に幅と深みが出てこない。その人の生まれながらの持ち味というものは一生離れられないものであり、未熟さや非力さを補強したり修正するところにも稽古の意義がある。

常に相手の強い部分を求め、これをいかにしたら崩すことができるか、打つことができるか、ということを研究や工夫することが大切である。

上手の人の理合まで自分の内容を引き上げて稽古をすることによって、上手の人の理合に近づくのである。さらに、上手の人に打たれることによって、上手の人の理合いを知ることができる。ここに、上手の人の理合まで引き上げてもらう、「稽古をお願いする」意義があります。

自分のめざす剣道の方向を崩さない修練の中で、打たれてもねらいと意思を崩さずに、信念として貫きとおすことが大切である。

「気いっぱい」「体いっぱい」に技を遣うことが大切である。気が生きていれば体は生きてくる。気と体が生きているので、「練りの成果によるひらめき」によって、瞬間瞬間の場の状況から技が発現される。

何故あの場面で打たれたのか、どうして打つことができたのか、その時の状況はどうであったのかという、結果に対する過程や、状況の点検と考察が大切であり、これが次の稽古の課題になってくる。

「気」について

武道でいう気とは、時間空間に用いられるが、だいたい心の状態を気の表現で用いられている。心や気はまとまった形象ではないが、態度に表現されるので機をうかがうという言葉があり、雰囲気に表れるのが気配である。

心得のある武士は相手と接して直ちに相手の気配を察した。殺意があるなどというのは、相手の殺意が何となく伝わるのであって、この殺意が気であるといわれている。

「浩然の気」ということを言葉で表現することは難しいが、この上もなく大きく、この上もなく強く、しかも正しいものであり、立派に育てていけば天地に充満するほどにもなり正義と人道によって存在するものである。

心は人間の内面にある意識や思慮分別・判断力のようなものであると考えられる。

気は心と技の中間に在って、心で判断した内容を技として発現する「意志の決定力」と考えられる。

剣道では機をとらえることが勝負の分かれ目になってくるが、機とは勢いの変わり目、分け目の兆す端であり、時間と空間の変わる急所のツボである。「気が練れている」ことを「肚が練れている」ともいうが、気の練れている人は機をとらえるのが上手な人といわれている。

合気になるということは、お互いが正々堂々と立ち向かうところから始まる。こうした正気が真正面からぶつかり合い、そして、正気のぶつかり合いから、相手の「気の隙間」や「気の崩れ」を求めて技を発現することが稽古の本道である。

剣道の技についても同様で、現象的には単純な竹刀一振りの打ちであっても、その中には多種多様な働きがある。間合いを調整しながら、どのように攻め、どのような機会をとらえて打つかという、お互いのやり取りの流れや、まとまりのある動き全体をも含めて一つの「技」としてとらえることができる。

気で先を取って攻めているなかで相手が先に仕掛けてきたとしても、自分は気で先を取って攻めている流れから、途中で相手の仕掛けていく技に対して応じながら変化する中で技をつかう。

剣道における色とは、気配や兆し、こころざしの変わり目であって、機会に通じる内容である。

剣道の修練にあっては「衒い」や「外連味」があってはならない。「衒い」とはひけらかして自慢する気持ち、という意味で、「外連」とは正法を破り、俗受けを狙いとした行動で、転じてごまかすという意味である。

技の考え方や、これに付随した体裁きや竹刀さばきの原理・原則をまず修得しなければいけない。体裁きや竹刀さばきの原理・原則とは、いわゆる技の基本である。

礼とは人間がお互いに交わっていく中で、社会の秩序を保つために必要な、人としての守るべき規範である。一般的に、礼は相手に対する尊敬の心や、相手の存在や立場を認める心を形に表したものであり、根本は形ではなく、その心であるとされている。

剣道の礼は相手にだけ向けられたものではない。自分自身の内面にも向けられたものでないといけない。正確な礼の形を実践することによって、「自分の内面にある感情を抑制して納める」ことになる。こうした礼の実践によって、感情を自己制御することが、人間としての在り方や生き方につながる。

礼は相手に対する単なる儀礼的な範囲に止まることなく、治世や社会秩序を維持する根本であり、人道としてももちろんのこと、人生の基盤としてなくてならないことである。

総括

本章は、剣道の稽古で身に付けるべき内容を詳しく説明しています。

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