宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、大名家に仕えた兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。
自身の剣術の理論を体系化して地の巻、火の巻、水の巻、風の巻に分けて記述した五輪書を残している。
絵画や武具・馬具づくりも能くした。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』といった水墨画や鞍、木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
1584年生まれで64歳で死去。生誕地は兵庫県の播磨説と岡山県の美作説がある。島田美術館に肖像画が保管されている。身長は182cmの長身である。
体には一つの大きな疵がある。足を洗うことや行水は嫌いで、ましてや沐浴をすることなどあり得ない。裸足で外を出歩き、体などの汚れは布や何かで拭って済ませている。
伝説
13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、全てに勝利した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書 が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った。
21歳の頃に、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる)と数度戦ったが全てに勝利した。
慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者と戦った。
大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍した。
その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行った。
元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕する。
寛永元年(1624年)、尾張国(現在の愛知県西部)に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。
寛永期、吉原遊廓 開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語が語られ、直前まで江戸に滞在していた。
吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった。
島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
寛永17年(1640年)、熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。
同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。
藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃、余暇に制作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始まる。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。
人物と功績
人並み外れた剛力の持ち主で片手で刀剣を使いこなすことができた。これが後に二刀流の技術を生み出すに至った。祭りで太鼓が二本の撥(ばち)を用いて叩かれているのを見て、これを剣術に用いるという天啓を得、二刀流を発案した。
自身の剣術が極致に達していた頃、修練のために真剣の代わりに竹刀を振ってみると、一度振っただけで竹刀が壊れてしまった。そのため木剣を使い始めたという。戦いを繰り返すうちに次第に木剣を使用するようになり、他の武芸者と勝負しなくなる29歳直前の頃には、もっぱら巖流島の闘いで用いた櫂の木刀を自分で復元し剣術に用いていた。
二本差しや木刀を用いるようになったのは、日本刀の刀身が構造上壊れやすくなっているので、勝負の最中に刀が折れるのを嫌ったため。吉岡家の断絶は、武蔵が当時における、武者修行の礼儀を無視した形で勝負を挑んだため、さながら小規模な合戦にまで勝負の規模が拡大し、吉岡がそれに敗れてしまったためである。
武蔵は書画小細工の作品を多数残している。現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、水墨画については「二天」の号を用いたものが多い。筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが明確な結論は出されていない。
主要な画として、『鵜図』『正面達磨図』『面壁達磨図』『捫腹布袋図』『芦雁図』『芦葉達磨図』『野馬図』、『枯木鳴鵙図』『周茂叔図』『遊鴨図』『布袋図』、『布袋観闘鶏図』。書としては、『長岡興長宛書状』(八代市立博物館蔵)、『有馬直純宛書状』、『独行道』、『戦気』。
伝来が確かな武蔵作の工芸品としては、黒漆塗の「鞍」、舟島での戦いに用いた木刀を模したとされる「木刀」一振。
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