山岡 鉄舟は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家。剣・禅・書の達人。
一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。
江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術を学び、武術に天賦の才能を示す。浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客であり、明治維新後は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。先祖には塚原卜伝がいる。
幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成する。江戸無血開城を最終決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となった。
明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。
人物像や後世への影響
金も名誉も命も欲しがらない清廉潔白の人柄だった。生涯人を殺すことをしなかった。生物を殺すことも忌み嫌った。金銭的にはあまり恵まれなかった。禅の精神を重んじる剣道観は後世に影響を与えた。
自身で剣道場(春風館)を建てて、剣術を教えた。高野佐三郎や松崎浪四郎も門下生として学んでいる。
達筆で、書物も多く残している。米飯に海苔、薬味ネギ、ワサビ、ユズを散らしてカツオ出汁をかけて食べる忠七めしをよく食べていた。木村屋のあんぱんも好物だった。
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