剣豪の紹介 8 森寅雄

剣豪の紹介

森 寅雄は、日本人の剣道家、フェンシング選手。剣道の段位は八段(範士追贈)。米国フェンシング界では「タイガー・モリ」の異名をとった名選手である。昭和初期の日本剣道界、米国フェンシング界でトップクラスの実力を持ちながら、さまざまな事情で優勝を逃した「悲運の剣士」としても知られる。

生涯

群馬県桐生市に野間寅雄として生まれる。曽祖父は幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人である森要蔵。母方の伯父は講談社創業者で野間道場を開設した野間清治。

小学校卒業後、東京府立第四中学校に入学したが、2学期から巣鴨中学校へ転入。剣道部に入部する。同校の剣道教師高野慶寿は、寅雄の才能に驚いた。

巣鴨中学校卒業後、有名各大学からの勧誘を断り、野間清治の意向で1932年(昭和7年)に当時講談社傘下だった報知新聞社に入社する。

1934年(昭和9年)、天覧試合の東京予選に出場し、決勝まで勝ち進んだ。その相手の中に野間恒がおり、2人の試合は「事実上の決勝戦」と言われた。この試合において、寅雄は蹲踞から立ち上がるなり、いきなり逆胴を決められ敗北した。

同年5月、東京代表として天覧試合に出場した恒は優勝を果たし、「昭和の大剣士」と謳われた。

1937年、新天地を求めアメリカ合衆国へ渡る。その地でフェンシングに出会い、フェンシングを習い始めた。翌1938年、南カリフォルニアフェンシング選手権に出場し優勝。さらに南カリフォルニア代表として出場した全米フェンシング選手権では準優勝した。決勝戦は、排日的な審判員の人種差別によって敗れたとされ、実際は寅雄が勝っていたといわれる。

1960年ローマオリンピック、1964年東京オリンピック、1968年メキシコシティーオリンピックでアメリカフェンシングチームのコーチを務めた。

2013年日本人として唯一の国際フェンシング連盟(FIE)の殿堂入りを果たしその名を永遠に称えられることとなった。

アメリカへの剣道普及、世界剣道選手権大会の実現に尽力したが、第1回世界剣道選手権大会開催前年の1969年に心筋梗塞で死去した(享年54)。剣道の稽古中の死であった。

悲運の剣士であったが、アメリカ剣道界、日本フェンシング界において、その教えは脈々と受け継がれている。

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