内藤 高治は、日本の剣道家。流派は北辰一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。武道専門学校教授。高野佐三郎と共に剣道界に大きな影響力を持ち、「西の内藤、東の高野」と言われていた。
生涯
水戸藩藩士・市毛家の六男として水戸に生まれる。父は水戸藩弓術師範・市毛高矩、母は北辰一刀流剣術師範・渡辺清左衛門の娘という武芸の家柄であった。
明治2年(1869年)から漢籍、水練、剣術を学ぶ。12歳で北辰一刀流剣術師範小澤寅吉の東武館道場に入門し、門奈正と親交を持った。20歳とのとき、親戚の内藤家の養子となった。
明治16年(1883年)4月に上京し、下谷車坂の榊原鍵吉道場を中心に1年間修行する。翌年から日本各地への回国修行を開始し、山籠もりするなど苦行を積んだ。東京へ戻ると警視庁撃剣世話掛の川崎善三郎、高野佐三郎らに試合を挑み、連勝した。
明治21年(1888年)5月9日、自身も警視庁に一等巡査として任官し、下江秀太郎の斡旋で東武館の同門である門奈正と同じ警察署に配属された。
明治30年(1897年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。
明治32年(1899年)3月、京都に大日本武徳会の本部武徳殿が竣工。武徳会は教授陣の強化をはかり、奥村左近太、三橋鑑一郎、内藤高治、佐々木正宜、小関教政の5名を指名した。内藤は武徳会常議員楠正位からの「ミチノタメキタレ」という電報に魂をゆさぶられ、同年9月、東京に築いた地盤一切をなげうって大日本武徳会本部に奉職した。
武術教員養成所の剣道主任教授を務め、後の剣道十段・持田盛二、斎村五郎などを育てた。
明治34年5月、第6回武徳祭大演武会で高野佐三郎と対戦し、1対1で引き分けた。審判を務めた三橋鑑一郎は、「あとにも先にも、あれ以上の試合は見たことがない」と、名勝負を後々まで述懐した。
明治44年(1911年)、大日本帝国剣道形制定の主査委員に任じられる。
剣道の競技化を嫌い、切り返しや掛かり稽古等基本を徹底して指導した。このため昭和天覧試合の開催に強く反対したが、宮内省官僚の西園寺八郎から勅命であると言われ、やむなく従った。「これで日本剣道は滅びた」と嘆じ、開催直前の昭和4年(1929年)4月9日に脳出血で急死した。
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