剣豪の紹介 5 中山博道

剣豪の紹介

中山 博道は、日本の武道家。流派は神伝重信流、神道無念流剣術、神道夢想流杖術。称号は剣道範士、居合術範士、杖術範士。大日本武徳会から史上初めて剣・居・杖の三道で範士号を授与された人物である。

石川県金沢市に生まれる。明治維新の混乱で家が零落し、5歳のとき一家で富山県富山市に移住。8歳で同市の商家へ丁稚奉公に出され、働きながら剣術、柔術を学ぶ。

18歳のとき東京府神田西小川町の有信館道場に入門。23歳で順免許、27歳で免許、28歳で師範代を許され、根岸の養子となる。中山家に復したのち、本郷真砂町に道場を建て、神道無念流・有信館を継承する。

神道夢想流杖術を内田良五郎に、無双神伝英信流居合を細川義昌に学ぶ。その後、大日本武徳会から前人未到の剣道・居合術・杖術の三範士号を授与され、昭和初期の剣道界において高野佐三郎と並ぶ最高権威者となった。

太平洋戦争後、戦犯容疑者として一時収監される。戦後は剣を捨てたが、武道団体の名誉職にあり、晩年の口述集が残された。「昭和の剣聖」、「最後の武芸者」と評される。

剣道の考え方

少年時に富山市で斎藤理則から山口流を学び目録を授かる。また、14歳のとき囲碁の段位を取得する。17歳で上京。その目的は囲碁であったとも剣術であったともいわれる。

18歳の時に有信館に入門する。身長160cm、体重60kg足らずの貧弱な体格から、到底ものにはならないだろうと言われたが、睡眠時間を4時間に削り、死ねばそれまでといわれる厳しい修行をして実力を付けた。1902年根岸の養子となり、神道無念流・有信館を継承した。

剣道形制定委員の一人に選ばれ、師の根岸信五郎と共に大日本帝国剣道形制定に尽力する。昭和初期の剣道界で高野佐三郎(中西派一刀流)と並ぶ権威を持っていた。

スポーツ的な剣道には批判的だった。

剣道は竹刀稽古と形の稽古と古武道は一体のものであると主張している。

剣道以外にも居合、杖術、柔術、にも取り組んでいる。合気道の植芝盛平とも交流がある。空手を素手の剣道であると評価している。弓術も稽古をしている。西洋剣術を研究したり、銃剣術や槍術も身に付けている。

身長160cm、体重60kg足らずの小柄な体格であったが、剣道の稽古では体当たりで倒されたことがなかったという。

80歳まで若者に負けない剣道は、正しく修行した者ならば80歳までは若者に負けることはないという。年を取れば体力も劣ってくるし、敏活な動作も鈍るのは当たり前ではあるが、剣道には竹刀という特別な介在物があることを忘れてはいけない。

この竹刀にかけられた積年の労が効果を発揮し、若い力や、若い動や、若い術に十分対応し、年齢より来る衰えを防護してくれるのである。

弟子への指導は厳しく、範士・教士であっても打ち据え、「出来損ないめ」と叱咤した。

道場内の衛生に気を遣い、白色の稽古着、袴を採用した。白色は汚れが目立つため洗濯する者が増え、衛生状態が良くなったという。当時白袴は神官が履くもので剣道家が履くのは奇異とされたが、その後普及した。現在も皇宮警察(済寧館)の剣道家は白道着・白袴を正装としている。

人物

博道は小学校に入学しておらず、学歴がなかった。ただし武道の研究には熱心であり、弟子の質問に対し「知らぬ」と言ったことがなく、故事や実例をあげ、納得いくまで解説した。全国の剣道家の特徴、長所、短所をそらんじていた。

博道と高野佐三郎は近代剣道の双璧と評されるが、高野が10歳年上である。博道が上京した当時、高野は既に明信館という道場を経営しており、根岸信五郎の有信館と近い場所にあった。博道がもし明信館に入門していれば高野佐三郎の弟子になっていたことになり、博道は生前に高野とよくこのことを話し合い、「縁とは面白いものだ」と語っていた。

高野が東京高等師範学校に奉職し嘉納治五郎の下で体育的な剣道を打ち立てたのに対し、博道はあくまで古流に依拠し、剣道がスポーツになりつつある状況を危惧していた。両者の剣道の方針は同じとは限らなかった。

長男の中山善道は博道の後継者として嘱望されていたが、博道の死と前後して剣道界から消息を絶った。

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