高野 佐三郎は、日本の剣道家。流派は中西派一刀流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。諱は豊正。号は靖斎。
警視庁撃剣世話掛、東京高等師範学校教授などを歴任した、昭和初期剣道界の第一人者。
武蔵国秩父郡(現埼玉県秩父市)に生まれる。幼少時から祖父で忍藩剣術指南役の高野佐吉郎に中西派一刀流剣術を学ぶ。
その後、上京して山岡鉄舟に師事し、警視庁巡査に任官する。
東京高等師範学校講師に登用され、勅任教授まで累進。大日本帝国剣道形の制定、学校剣道の指導法を考案し、現代剣道の基礎を築いた。同時に明信館道場を設立し多数の弟子を育てる。昭和初期の剣道界において中山博道と並ぶ最高権威者となり、「昭和の剣聖」と称される。
生涯
高野家は代々武蔵国秩父郡大宮郷で秩父絹の検査役を務め、後には大宮宿の旅籠も併せて営んでいた。居宅は秩父神社境内にあった。
佐吉郎は、ケイが妊娠すると道場で稽古の見学を命じ、胎内の佐三郎に竹刀の音を聞かせた。夜には歴史上の英雄・豪傑の伝記を読み聞かせた。佐三郎が産まれた場所は秩父神社の道場内であった。佐三郎が歩くようになると、さっそく桐の木刀を与え、3歳から中西派一刀流の形稽古をつけた。
地元での剣道大会で敗北を経験した後、もっと修行を積むことを決意して上京する。東京に着いた佐三郎は四谷の柴田衛守を訪ね、荒稽古を求めた。柴田はそれならばと、山岡鉄舟の道場を勧め、防具を佐三郎に貸した。
佐三郎の遺稿によれば、山岡道場は稽古が荒いため普通の者はすぐにいなくなるが、佐三郎はただならぬ様相で稽古を続けたので、周囲は訝しがった。2か月後に、大会で敗れた相手に再戦を申し込んだが断られた。
佐三郎は鉄舟からその後一層気に入られ、その後も親交を深めた。
佐三郎は警視庁巡査に任官し本所元町署撃剣世話掛に赴任した。
当時の警視庁は、幕末の動乱をくぐりぬけてきた元武士、抜刀隊士や、各地から招聘された剣豪が集まり、剣術家最大の拠点となっていた。佐三郎は幕末の生き残りである上田馬之助、逸見宗助、梶川義正らの指導を受けた。若手の中で佐三郎の活躍は特にめざましく、高橋赳太郎、川崎善三郎と合わせて「三郎三傑」と謳われた。
明治23年(1890年)、浦和に明信館道場を設立し、急速に支部を増やす。明治26年(1893年)、皇太子・嘉仁親王が大宮公園に行啓した際、佐三郎は門人を招集し剣道を台覧に供した。
明治28年(1895年)10月26日から28日まで平安神宮で開催された大日本武徳会主催の第1回武徳祭大演武会に出場し、京都府の井沢守正、徳島県の高木義征と対戦し勝利した。翌年の第2回大会では福岡県の浅野一摩、滋賀県の小関教政に勝ち、当時の剣道界の最高表彰である「精錬証」を授与された。
明治32年(1899年)、実業家・平沼専蔵の後援により、一家で東京に移住。明治35年(1902年)5月、大日本武徳祭大演武会の大家43名の高点試合で優勝し、日本刀と賞与を授与された。同年10月、東京府麹町区飯田町(九段坂)に明信館本部道場を設立。
明治36年(1903年)4月20日、大阪府で催された第5回勧業博覧会の剣道大会で、有名剣士100余名の中から佐三郎が最優秀者に選ばれ、皇太子から金製記念章と銀製面金絹糸刺し撃剣道具を授与された。明治38年(1905年)4月、剣道教士に昇進する。
明治45年(1912年)、大日本武徳会に剣道形の調査委員会が設けられ、全国から25名の委員が選ばれた。佐三郎はそのうち5名の主査の一人に選ばれ、剣道形制定の中心的人物となった。流派を超えて形を統一することは難航を極め、連日熱烈な討論が続いた。大日本帝国剣道形が完成する。
大正5年(1916年)4月8日、東京高等師範学校教授に昇任。当時、剣道の腕一つで教授に上り詰め、叙勲をも受けた剣道家は佐三郎だけであった。同校で佐三郎は、学校体育のための剣道指導カリキュラムともいえる「剣道基本教授法」(集団指導法)を考案し、京都の武道専門学校教授・内藤高治と並び、「東の高野、西の内藤」と称された。
大正7年(1918年)5月、渋沢栄一の後援で、神田今川小路一丁目に修道学院を設立する。剣道修行を単なる技術の習得に終わらせず、人材を育英することを目的とした。
昭和4年(1929年)、同9年(1934年)、同15年(1940年)の天覧試合で、佐三郎は中山博道と共に剣道形演武と審判員を務めた。佐三郎(修道学院)と博道(有信館)は、当時の剣道界の双璧であった。
昭和6年(1931年)と同13年(1938年)には、早稲田大学剣道部を引率してアメリカへ遠征した。
昭和11年(1938年)、東京高等師範学校勅任教授に昇任し、退官。教授を辞したあとも講師として指導を続けた。太平洋戦争が悪化すると、秩父に疎開した。昭和20年(1945年)8月15日に日本は敗戦し、占領軍(GHQ)の命令で大日本武徳会は解散、剣道の組織的活動は禁止された。
昭和25年(1950年)夏、鎌倉稲村ヶ崎に移住。同年12月30日に死去。享年89。
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