剣豪の紹介 4 千葉周作

剣豪の紹介

千葉 周作は、江戸時代後期の武士、剣術家。北辰一刀流の流祖。幼名於兎松、周作は通称で、諱は成政。漫画「赤胴鈴ノ助」のモデルになった。

出自

先祖を辿れば桓武平氏良文流、板東八平氏の一つの名門千葉氏で、北辰流千葉常胤にたどりつく。

出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2説があったが、近年の研究により宮城県気仙沼市本郷で生まれ、栗原郡荒谷村で幼少を過ごしたとする説が最も有力視されている

・気仙沼市本郷説にあっては、千葉3兄弟自筆の史料が発見されている。

父は千葉忠左衛門成胤

北辰一刀流

周作5歳のころ、故あって父は周作だけ連れて気仙沼を出奔し、縁あった宮城県栗原郡荒谷村の斗瑩稲荷神社境内に居を構える。周作は、ここで地元の剣士・千葉吉之丞から北辰夢想流を学んだ。

15,6歳の時に、父と共に松戸に移り、小野派一刀流中西派の浅利義信に入門した。浅利家から、一刀流中西道場に通い、中西子正、寺田宗有などの指南を受けて腕を磨き、後に浅利義信の婿となって、浅利又一良と名乗った。

周作は、一刀流組太刀の改変を考え、浅利義信の立場を重んじ、妻を連れて独立して、北辰夢想流と小野派一刀流中西派を合法して、北辰一刀流を創始した。このことは免状に明記されている。

その後、武蔵・上野・信州、北信濃から諏訪地方などを周って他流試合を行い門弟数も増え、伊香保神社に奉納額を掲げることを企画したが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し断念した。この一件で、北辰一刀流は上野から撤退したが、北辰一刀流と周作の名は上がった。

文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、剣術最大の流派となった。

周作の門下から幕末の重要人物が多数輩出された。主な人物としては、浪士組を作った清河八郎、江戸無血開場の立役者山岡鉄舟、新選組の山南敬助、伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎、日本最初の独和辞典を刊行した日比谷健次郎などが挙げられる。海保帆平、森要蔵、庄司弁吉、稲垣定之助、塚田孔平らは優れた剣客として名を上げた。

天保10年(1839年)、徳川斉昭の招きを受けて、水戸藩剣術師範となり、12年には馬廻役として100石の扶持を受けた。次男の栄次郎と三男の道三郎もそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。

塚田孔平が、水戸弘道館にて、相澤正志斎、戸田銀次郎、藤田東湖らと親交、天狗党の乱に関ったため、水戸藩では、一時、北辰一刀流を禁止した。

維新後は、千葉栄次郎門下の下江秀太郎が警視庁剣術世話係、水戸の内藤高治、門奈正が大日本武徳会教授となるなど、多くの剣士が活躍して、日本剣道の発展に尽くした。

構えは、剣先をセキレイの尾のごとく振るといわれている。松崎浪四郎が「技の千葉(北辰一刀流)、力の斎藤(神道無念流)、位の桃井(鏡心明智流)」と幕末江戸三大道場を評しているのが有名である。「それ剣は瞬速、心、気、力の一致」という周作の言葉がある。

竹刀稽古の教授法が統一されたということも、大きな特徴で、他の流派にないことであった。他流派は、単なる打ち合いの稽古法だったが、千葉周作は掛かり稽古を中心にした稽古法を作った。

そして、多かった免許の段階を、3段階と簡素化したことも特徴である。神秘性に偏らない、合理的な指導法は効果があり、他流派においては10年かかる修行が、5年で完成してしまうと言われた。この剣術指導法は、内藤高治らの功績もあって、現代剣道に大きな影響を与えており、剣道家らの評価が高い。

平成15年(2003年)、千葉周作は全日本剣道連盟 剣道殿堂に顕彰された。

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