剣豪の紹介 3 柳生宗矩

剣豪の紹介

柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。

元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。

父・宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる。

家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。

関ヶ原の本戦では本陣で参加した。後の2代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、3,000石の大身旗本となった。

大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという。

一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である。76歳の時に江戸で死去する。友人には沢庵宗彰がいる。

子には隻眼の剣士として知られる長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4男と他2女がいる。

人物と功績

剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置する。

一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の武術・武道に大きな影響を与えた。

この宗矩の思想をまとめた『兵法家伝書』は、『五輪書』と共に近世武道書の二大巨峰と評され、『葉隠』や新渡戸稲造著『武士道』など武道以外の分野の書物にも影響を与えている。流派当主としては、新陰流(柳生新陰流)を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。

これにより、当時多くの大名家が宗矩の門弟を指南役として召抱え、柳生新陰流は「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った。幕臣としては有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。

伊達氏(伊達政宗)、鍋島氏(鍋島勝茂、鍋島元茂)、細川氏(細川忠興、細川忠利)、毛利氏(毛利秀就)などと親交があった。幕府初代惣目付として勤めていた際、細川忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。

また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年)の家光上洛に際しては、事前の宿場検分役や帰りの道中修造奉行、寛永13年(1636年)の江戸城普請の際の普請奉行などもこなしている。将軍・家光には若いころからの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱、春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。

肩書きは兵法指南役であったが剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価された。家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受けて、最後まで信頼され続け、見舞いの床においても兵法諮問に答えている。また、家光も生涯、宗矩以外の兵法指南役を持たなかった。

父親としては、子息4人のうち、長男・三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、三男・宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、子の教育について沢庵より忠告を受けている。

「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方で、三厳は著書で「祖父・石舟斎は流祖・信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父・宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさる」としてその出藍の誉れをたたえている。

社会的な面での思想

兵法(剣術)の理想として「活人剣」を提唱した。これは「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」というもの。

実戦的な面での思想

直接的な技法だけではなく、「心法」にも注目し、この重要性を説いた。ここでいう心法は観念的なものではなく、現代で言うメンタルトレーニング的な面が強く、相手の動きや心理の洞察、それを踏まえた様々な駆け引き、またいかなる状況においても自身の実力を完全に発揮し得る心理状態への到達・維持など、実戦における心理的な要素を極めることで、より高みに達することを目指したものであった。

宗矩の門下

将軍家指南役にして、柳生新陰流(江戸柳生)の当主であった宗矩には多数の弟子がいた。それらの弟子達には、大名家へ指南役として仕えた者や、後に一流の流祖となった者も多かった。また、将軍家である秀忠、家光をはじめ、当主自ら入門している家も存在した。

エピソード

沢庵との逸話紫衣事件により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海や堀直寄と共にその赦免の為に奔走している。

伊達政宗とは、かなり早くから交際があったという。

また、能役者とも交流があり、立ち合い能の人選をおこなったこともあった。

かなりの喫煙者であり、沢庵より「かく(胸の病)」になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告
を受けている。

宮本武蔵や塚原卜伝からも試合を申し込まれたことがある。

著作

『切合極意見之心持之事』- 直弟子である小城藩藩主・鍋島元茂に与えられた伝書。

『新陰流兵法心持』- 徳川家光に与えられた伝書。なお、家光への伝書は、これを披露する老中・酒井忠勝宛になっている。

『外の物の事』- 家光に与えられた伝書。「外の物」とは太刀以外の物の意であり、槍、長太刀、小脇差、馬術等の術に加え、日常での心がけなども記されている。

『兵法家伝書』- 宗矩の代表的著作にして『五輪書』と並ぶ近代武道書の二大巨峰。『進履橋』『殺人刀』『活人剣(「無刀之巻」含む)』の3部構成となっており、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などを説いた宗矩の兵法思想の集大成の書。柳生家の家伝書となった他、鍋島勝茂、鍋島元茂、細川忠利にも与えられている。岩波文庫にて渡辺一郎校注で刊行されている。

『玉成集』- 鍋島直能に与えられた伝書。

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