剣豪の紹介 11 上泉信綱

剣豪の紹介

上泉 信綱は、戦国時代の日本の兵法家で武将。剣聖と讃えられる剣豪の一人で、新陰流の祖。

上泉信綱は、戦国時代の史料上には、「大胡武蔵守」として多く現れ、「上泉武蔵守(信綱)」などとある。伊勢守とはみえない。

長野氏の軍制を記した文献には、勢多郡上泉の住人の「上泉伊勢守時則」が下柴砦の主としてみえる。これを『桂萱村誌』は諱が違うものの信綱が長野氏に仕えたのは間違いないとする。上泉伊勢守が門弟・丸目蔵人佐とともに将軍・足利義輝に兵法を披露し、それに対する義輝からの感状が、熊本県の丸目家に所蔵される。

人物と功績

上野国は赤城山麓の川原浜に所在した大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ、大胡城の西南2里に位置した桂萱郷上泉村に住んだ上泉氏の出身。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流・神道流・念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から新陰流を大成した。

信綱は箕輪城の長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後宗治、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。

嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続したと伝える。

剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。 一方子孫と伝える上泉氏も独自の家伝を持っている。

信綱の誕生と出自

名字は「大胡(おおご)」。通称の姓は「上泉」で、読みは「かみいずみ」。

名は、『言継卿記』では大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱。

上野国は赤城山麓の上泉で生まれたと伝えられるが、異伝は上泉城を生誕地とする。生年は史料が無く、不明。

父は、大胡武蔵守秀継とされる。ただし異説もあり、『撃剣叢談』では上泉武蔵守義綱とある。

なお通説では大胡氏の一族とされるが、子孫という上泉家の家伝では一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ上泉氏の祖となったと伝える。

陰流、神道流、念流を学んだという信綱であるが、その師については諸説ある。

愛洲移香斎を師とする説と、移香斎の子・元香斎小七郎を師とする2説がある。

松本備前守を師とする説とこれ以外を挙げる説がある。

生涯

北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したという。その後、長野業正とその子長野業盛に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらったという。

長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にある。

江戸時代の『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』などによると、箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟と共に諸国流浪の旅に出るという。

「兵法由来覚」では、信綱一行は本国を出たのち伊勢神宮へ向かい、そこで柳生のことを聞き大和へ赴いたとする。年次の記載は無い。一方『正伝新陰流』では、京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いてそこへ向かい、胤栄と柳生宗厳と出会いこれを下したとする。永禄6年のことという。

永禄8年には柳生宗厳・胤栄に印可状を与え、永禄10年には目録を丸目蔵人佐に与えた。「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けたとする。

なお、確かな同時代史料である山科言継の日記『言継卿記』にある上洛期間は永禄12年1月15日 – 元亀2年7月21日までである。元亀2年7月21日に京を去り故郷へ向かったとある。

没年は天正5年以後と言われている。

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