塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた。
生涯
鹿島神宮の神官で大掾氏の一族鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢の次男として常陸国鹿島に生まれる。幼名は朝孝ともたか。
時期は不明だが、後に覚賢の剣友塚原安幹の養子となる。同時に諱を高幹たかもととし、新右衛門高幹と改めた。塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家である。のちに、土佐守、または土佐入道とも称した。卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部うらべを由来とする。
実父・覚賢からは鹿島古流を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」も養父の安幹から伝授されたという。 やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。
卜伝の弟子である加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』の後書によると、その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。
真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている。
よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。卜伝は諸国を武者修行したが、その行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせ、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったと伝えられる。
弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒のほか、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤伝鬼房ら一派を編み出した剣豪がいる。
また、将軍にもなった足利義輝や足利義昭、伊勢国司北畠具教や武田家軍師山本勘助にも剣術を指南したという。また、足利義輝と北畠具教には奥義である「一之太刀」を伝授したとされている。
上記の通り「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により後世に剣聖と謳われた。
晩年は郷里で過ごし、『鹿島史』によれば卜伝は元亀2年(1571年)2月11日に死去したとされる。享年83。
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