エピソード
亀新フィーバー
前年まで低迷していたチームは最終戦の1試合前まで優勝争いをした(最終順位は2位)。この躍進は、右中間守備コンビを組む亀山努らと共に活躍したことから亀山・新庄の頭文字をとり「亀新フィーバー」と称された。当時に入寮している球団寮・虎風荘へ届く新庄宛のファンレターは1日につき段ボール1個分あったという。
また寮や新庄の行く先々へ連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道され、寮の前の混雑により球場からの帰寮もままならない状況となった際には、梅本正之寮長などが新庄をホテルへ一時的に住まわせるなどの対策を施した。
シーズン打率.278・本塁打11を記録するも規定打席に僅かに及ばず、新人王を選定する記者投票でも同僚の久慈照嘉に5票及ばず、次点となった。
この年に初めての規定打席へ到達。初のシーズン100安打も達成して打率.257、オマリーと並びチーム最多の23本塁打を記録し、ベストナイン初受賞。守備ではリーグ外野手最多13補殺を記録しゴールデングラブ賞初受賞。
本塁打取り消し
2004年の9月20日のダイエーとの公式戦で9回にサヨナラ満塁ホームランを打った後、走者の追い越しのために取り消しになったことがある。
その他に公式戦でホームランが取り消しになったことが2回ある。
引退宣言騒動
1995年オフの11月19日、突然の現役引退宣言を行った。
新庄は引退宣言を撤回するよう川島廣守セ・リーグ会長や渡辺省三スカウトなどからも説得を受け、宣言後に父親の病気が悪化したことを母親より伝え聞き最終的に父親を勇気づけるために現役続行を決断。
このころからメジャーに対して憧れを抱くようになる。
投手挑戦
秋季キャンプから野村克也新監督の発案により、外野手との兼務(二刀流)を目指して投手としての練習を開始した。翌1999年オープン戦の2試合に登板するも左膝を痛めたため、投手挑戦を断念した。
挑戦の発案者である監督の野村克也が発案した理由は、投手をやることで、打撃時に活かせるよう投手心理を理解してほしいため、また、上半身主体ではなく下半身を使う打撃に活かしてほしいためであるが、豪速球を投げる力量はあるが、性格は投手としての適性は欠けている。
後に、投手として抑えるのが簡単でつまらなかったため野村克也監督に対して嘘をついたと語っている。
敬遠球をサヨナラ安打
1999年6月12日、巨人との首位攻防戦(甲子園)12回裏同点一死一・三塁の場面(投手:槙原寛己、捕手:光山英和)で敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。初球の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同様の投球を打ち、三遊間を抜いて左翼前へ転がした。
通算1000試合出場
2000年の7月20日に甲子園で行われた巨人戦で通算1000試合出場を達成した。
終わってみれば打率.278 142安打 23二塁打 28本塁打 85打点(本塁打・打点はキャリア最多。本塁打は「先制・同点・勝ち越し・逆転」の殊勲本塁打が20本)15盗塁でチーム六冠王に輝き、猛打賞10回を含む(三塁打以外の)打撃成績全てがこの年のチーム最多記録だった。ベストナイン・ゴールデングラブ賞受賞。シーズンオフの11月に開催された日米野球に出場して打率.409(22打数)を残した。
MLBへの移籍表明
2000年8月に取得した初めてのフリーエージェント (FA) 権を11月9日に行使してFA宣言。
しかし新庄の決断は交渉をしていた阪神の球団関係者も予想できなかったところである、かねてより移籍志望を抱いていたMLBのニューヨーク・メッツへの移籍となった。契約内容は、契約金30万ドル(日本円換算で当時約3300万円)・年俸20万ドル(同2200万円、当時のメジャー選手最低保障額)プラス出来高払い50万ドル(同5500万円)の3年契約であった。
12月27日、タレントの大河内志保と入籍。彼女との交際は始まった1993年当時から認めていたが、入籍に際しそれまで約8年の間同棲していたことを公表した。
メッツ時代
MLB1年目は自身の意向で単身渡米し、2年目より夫人も居を移した。代理人をMLBでの3年間、マイク・ニコテラおよびその同僚のジーン・カザレッジョが務めた。
開幕メジャー入り(MLBでの3年間は毎年開幕メジャー入り)。4月3日の開幕戦8回表の代走としてMLB初出場。一塁走者としては珍しい外野への飛球の時のタッグアップで二塁へ進塁し、10回表の初打席ではケリー・ライテンバーグから初安打を記録した。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録して総数は12打撃では故障離脱の影響もあり規定打席には未到達ながら、満塁時に打率.583(12打数7安打)・打点17を記録し、勝利打点11はピアッツァと並びチーム最多。
ジャイアンツ時代
ジャイアンツ時代(2002年)2001年12月16日、デシー・レラフォード(英語版)内野手と共に、ショーン・エステス投手との2対1トレードでサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍した。背番号は引き続き「5」。
復帰後の先発出場は激減し、この年は打撃のほとんどの部門において前年より成績を下げた。守備ではリーグ外野手および中堅手のレンジファクター (RF/9) 1位を記録。シーズン最終戦の1試合前に決めたチームのワイルドカード獲得に貢献して、自身NPB/MLB通じて初のポストシーズン出場(チャンピオンシップシリーズ)およびリーグ優勝を果たした。
10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番・指名打者で、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場。
チームはそのまま敗れシリーズ制覇を逃し、選手らはナ・リーグのチャンピオンリングを翌年に受け取った。
メッツ復帰
2003年1月11日に古巣のニューヨーク・メッツと年俸60万ドル(日本円換算で当時約6000万円)で契約した。背番号は引き続き「5」。
打撃成績は5月にこれまでの自身ワーストとなる24打席連続無安打を記録するなど次第に低迷していき、6月28日のヤンキース戦デイナイトダブルヘッダー第1試合(ヤンキー・スタジアム)終了後に、MLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちした。
日本ハム時代
移籍先はNPBの翌シーズンより北海道へ移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、契約金4000万円・年俸8000万円プラス出来高払い5000万円の2年契約を結んだ。
最初にオファーを受けた球団に行くと決めており、それが日本ハムであったという。
会見では「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と目標を掲げた。登録名は「SHINJO」、背番号は「1」と決まり、自身の専属広報に荒井修光が就任した(現役引退まで在任)。また日本ハム時代の専属トレーナーは自身運営の鍼灸院スタッフが務めた。
2004年プロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となる、9月20日の福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)試合前に「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称し、森本稀哲・島田一輝・石本努・坪井智哉との同僚外野手5名で『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりものパフォーマンスを実施した(他人と合同では初実施)。
現役引退後
現役引退後はタレントへ転身。またエアブラシアートと、2011年より2016年ごろまではモトクロス競技の練習にも取り組む。
2007年1月28日、2003年を最後に休止していた自身の公式サイトの更新を再開して、今後の活動の方向性などを報告した。
3月1日、2006年度ゴールデン・アロー賞・スポーツ賞を受賞。4月25日、前年に行った寄付について紺綬褒章を受賞。
会社設立
2008年1月28日、新庄剛志が株式会社レハサフを設立して取締役に就任した。業務内容はアスリート・アーティスト等のマネジメントや、コスメティック・アパレルグッズの企画・販売など。
バリ島移住
2010年前半を最後にメディア出演がなくなり、この頃よりインドネシア・バリ島へ移住した。当地への移住を決めるきっかけはCM撮影での訪島であった。モトクロス競技の練習は当地を拠点として行っていた。また当地では日本で始めた絵画制作に加え、当地の子供達への簡単な野球指導も行っている。
現役復帰宣言
その後、2019年11月27日付で任意引退選手公示が抹消され、自由契約選手公示された。
日本ハム監督時代
2021年、北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督が同シーズン限りで退任することが明らかとなり、10月26日、後任の監督として新庄に内定したとの報道がされた。その後、10月29日に日本ハム球団から正式に2022年シーズンからの監督就任のオファーを受け、受諾したことが発表された2006年の現役引退から16年ぶりのNPB復帰となる。
球団出身者が監督に就任したのは、2000年から2002年まで監督を務めた大島康徳以来。
社会貢献活動
1995年に所属する阪神の地元で起きた阪神・淡路大震災の際に、球団選手会副会長として同僚と共にの支援募金活動などを行った。2001年に所属するメッツの地元をはじめとする地域で起きたアメリカ同時多発テロ事件の際には、同僚と共にの支援物資運搬などを行った。
2004年に起きた新潟県中越地震の際には、出演したラジオ番組イベントや自身の写真展での支援募金活動で集まった寄付金とポケットマネーを合わせた義援金と、クリスマスイヴ前には小型ケーキ約2000個を被災地へ贈るなどした。同じく2004年に起きたインドネシア・スマトラ島沖地震の被災地へは、翌年の自身の本塁打数に応じた義援金を贈るなどした。
日本ハムに入団した2004年より引退した2006年まで自費で、本拠地・札幌ドームでの主催試合の外野左翼席に野球少年達などを無料招待する「SHINJOシート」を毎試合126席ずつ用意し、バックスクリーン上方の看板スペースの右翼側2枚分に個人広告看板を連ねて掲示していた。
2005年8月、母校の西日本短期大学附属高等学校野球部が前年の夏の甲子園に出場したことを称えマイクロバス(車種はトヨタ・コースター)を寄贈し、「甲子園史上最大の差入れ」と話題になった。
テレビ番組出演
2004年1月2日放送のフジテレビ『クイズ$ミリオネア』に解答者として出演。
2009年11月1日、フジテレビ『BASEBALL SPECIAL 2009〜野球道〜 日本シリーズ 北海道日本ハムVS巨人第2戦』(札幌ドーム)の中継にて、自身初の野球解説を清原和博と共に担当した。
冒頭の挨拶にて、清原と一緒だから解説依頼を受けたこと、今回が自身最初で最後の解説であることを告白した。
CM出演
新庄の姓をもじったキャッチコピーが使われた作品がある。
- 「新庄式 = 新常識」
- (日本ハム「モーニングサーブ」)
- 「イッシンジョーの都合でデューダしました」
- 「一身上」現役引退した翌年明け放送の作品(インテリジェンス「デューダ」)
ファンサービス
同僚も巻き込んでファンサービスに力を注ぐ狙いは、自身以外へも興味を持ってもらい新たなファン層を開拓するきっかけづくりにあり、後輩の森本稀哲は新庄の引退後もその役割を引き継いだ。同じく後輩の稲葉篤紀も新庄の姿勢に学び、プレーとファンサービスの切り替えができるようになったという。
選手生活晩年には選手としてのファッションに関する話題が多く報じられたが、それ以前からファッション的なことに限らず、球界に前例のない行動が目立った。
こういった派手で破天荒な言動が日本ハム移籍後には「新庄劇場」と称されて目立ったが、試合前パフォーマンスなどの事前に各方面へ了解を取りつけるなど、周囲に対する配慮もあった。
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